バイオリンとビオラ奏者の矢谷明子さんは、6年前から夫で弦楽器鑑定家のパオロ・バンディーニ・カッレガーリさん(68)とサンマリノで暮らす。きっかけは、サンマリノ政府がバンディーニさんにバイオリン美術館建設のために力を貸してほしいと依頼したことだった。
当時の文化大臣は、サンマリノ出身の弦楽器製作者マリノ・カピッキオーニの没後40年を機にバイオリン美術館を創設したいと考えていた。
バンディーニさんは、サンマリノに隣接するイタリアのエミリア・ロマーニャ州出身で、弦楽器鑑定に長く携わり、地域の弦楽器への造詣(ぞうけい)が深かった。生前のカピッキオーニさんと、跡を継いだ息子マリオさんとも親交が深かったこともあり、白羽の矢が立った。
2人は、世界遺産に登録されているサンマリノの旧市街地でバイオリン美術館を運営するほか、アンサンブルを結成して元首にあたる「執政」の就任式など様々な式典で演奏を披露している。
矢谷さんは日本の大学でバイオリン、ビオラを学んだあとイタリアに住み、20年近く演奏活動をしてきた。四方を囲まれたイタリアとは食べ物も言葉も同じ。地続きの国境を越えても、風景は隣町と変わらない。「初めはイタリアと何も変わらないと思った。祝祭日が違って戸惑ったくらい。それくらい違いが見つけられなかった」という。
バンディーニさんは、サンマリノに住み始めた頃のことを今も鮮明に覚えている。
「2016年12月22日。私たちは、1人も知り合いがおらず、クリスマスは2人だけで過ごすのだろうと思っていた。でも実際は、クリスマス休暇が終わる日まで、毎日代わる代わるいろんな人が訪ねてきてくれた。なんてあたたかい人たちだろうと思った」と振り返る。
サンマリノでの生活が続いていくうち、矢谷さんもイタリアとの違いを実感した。
「西洋の人は個人主義で自立している人が多いけれど、サンマリノの人はまず周りをみる。目立つことを好まず、互いの様子を見合っている。イタリア人の気質とは全然違う」といい、その気質が日本人に似ていると感じるようになった。
「閉鎖的なところもあるけれど、独立を守ることが一番のアイデンティティーだったから。山に囲まれたサンマリノは、海に囲まれた島国日本と似ているところがある」という。
サンマリノには、ヨーロッパで唯一の神社と言われる「サンマリノ神社」がある。駐日大使のマンリオ・カデロさんらの尽力で、東日本大震災の犠牲者を追悼するため2014年に創建された。バンディーニさんと矢谷さん夫妻は19年、ここで式を挙げた。
バンディーニさんはサンマリノを「山のてっぺんに立った島国」と例えた。
「サンマリノの人々も自由と独立のためにどんな犠牲もいとわなかった。自由に値段はつけられない。領土の広さではなく、心あっての国。サンマリノは政府が管理している一つの大家族」と話した。
2人は課題も感じている。
日々、サンマリノに文化芸術を普及させるために活動をしているなかでのこと。例えば、国立博物館でバイオリンの展覧会をするときなど。新しいことに取り組むときは、予算が下りづらく、及び腰だと感じる。
選挙で60人の国会議員にあたる「大評議会」のメンバーが選ばれ、そのメンバーの中から国家元首にあたる「執政」が2人決まる。執政は半年ごとに交代する。
このシステムは、独立を守るという民意を反映するには機能的だが、「改革は難しい」と感じる。みな新しい法律の制定や大きな変革をきらう傾向があるからだ。矢谷さんは「独立を守り続けるのがサンマリノの人たちのアイデンティティー。そこを大事にしながら、新しいことにも取り組んでいってほしい」と話す。
■サンマリノでプレーしたプロサッカー選手
江の島FCの田島翔さん(39)は2020年から21年まで、サンマリノのサッカー1部リーグでプレーした。
ヨーロッパのトップリーグでプレーするのが夢だった田島さんは、サッカーをしている動画と履歴書を直接クラブに送り、日本人で初めてサンマリノでプレーするプロのサッカー選手になった。
田島さんは、高校卒業後にシンガポールにサッカー留学した後は、クロアチア、スペイン、ニュージーランド、アメリカ、韓国のリーグでプレーしてきた。サンマリノは7カ国目だった。
サッカー人生のほとんどを海外で過ごしてきたが、サンマリノでは初めての経験をしたという。「みんなとってもシャイだった。これまではどの国に行っても周りが積極的に話しかけてくれたけれど、サンマリノでは初めて自分から話しかけた」
ただ、ひとたび仲良くなると、日本に興味をもったり日本語を学びたいと言ってくれたりした。「アジア人ということでからかわれたり、嫌な思いしたことがないのも初めてだった。素朴な人柄で、人間関係のストレスはなかった」と振り返る。
一番驚いたことは、プロの選手はわずか数人で、他はみな仕事をもっていること。コーチや監督も同様だった。サンマリノでは、政治家も同じだと聞いた。田島さんは「彼らにとっては当たり前。僕のようにプロでサッカーをしている選手がいることも割り切っている感じだった」と話す。
練習が休みの日は、チームメイトそろって、彼らが働く飲食店に行ったり、靴屋で靴を買ったり。それぞれが私生活でも助け合っているように感じた。
コロナ禍で思うように活躍の場がなく、悩んだ末に帰国した。サンマリノの生活を機に、人生の過ごし方への気持ちが変化したという。
「18歳で海外に出てから、サッカー漬けの生活をしてきた。サンマリノの人は、生活の中に、サッカーがあればいいという考えだった」
田島さん自身が現役生活の終盤だと感じていることもあり、サンマリノでの生活を機に、そのあとの人生の過ごしかたについてより考えるようになったという。
今年7月、かねて目指したかった麻雀のプロテストに合格した。
「サンマリノの経験があったからこそチャレンジできたこと。日本は一つのことだけに打ち込む美学みたいなのがあるが、自分が輝ける場や生きがいの場がいくつあっても良いと思った。二刀流でもいい。これからは、自分にしかできないことを伝えていきたい」
からの記事と詳細 ( 「山のてっぺんの島国」サンマリノ 暮らしてわかった、日本との共通点:朝日新聞GLOBE+ - GLOBE+ )
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