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Monday, January 8, 2024

理想の家を建てて分かった「思い通り」というリスク - 日本経済新聞

周囲の人の力を、うまく借りられていますか? つい、「自分でやったほうが早い」と思ってしまっているならば要注意。実はその考えが、発展の芽を摘み、可能性を狭めることにつながっていると、経営者でありデザイナー・アーティストでもある山崎晴太郎さんは指摘します。なぜ他人にまかせることが不可欠なのでしょうか。新刊『 余白思考 アートとデザインのプロがビジネスで大事にしている「ロジカル」を超える技術 』(日経BP)から、「いい想定外」の生み出し方を考えます。

実は大きな機会損失 「他人にまかせられない」症候群

 人に仕事をまかせたり依頼をするのが、苦手な人がいます。「自分でやったほうが早い」と、つい思ってしまう症候群みたいなものでしょうか。特にこれは、仕事が「できる」人が持ちがちで、初めてマネジメント職になった人のほとんどが一度は抱える悩みです。

 僕自身も、特に作品づくりにおいては、そう思わないこともないというのが正直なところです。1人でやれば、当然、他人と一緒にやるよりもストレスはないし、自分の狙い通りのものができやすい。できなければすべて自分の責任なので、自分の力を磨けばいいわけですから。

 それでも、最近は周囲の人と一緒につくりあげていくことの意味を、強く感じています。それは、他人と一緒につくるときに起こる「イレギュラー」、つまり偶発性が、事前に予想できなかった効果を生み、結果的にクオリティーを上げてくれることが多いと気がついたからです。

 不思議なことなのですが、作品づくりもプロジェクトも、1人で完結させるより偶発的なイレギュラーが起こったほうが、いいものができあがることが多々あります。

 すべてが最初の予定通り、自分の設計図のままだと、それは「すでにあるもの」「すでにある価値」の中にとどまっているにすぎない。自分にできることの枠の中にあるものだけをアウトプットしていく、単調な仕事になりかねません。これは、案外退屈で、飽きるのも早くなります。

 論理を積み重ねた先に最適解があるような仕事ならば、それでもいいのかもしれません。しかし、自分自身の経験や興味関心に基づき非連続なコンセプトを導き出す「アート思考」や、商品やサービスを使うユーザーの視点から他者視点で解決策を考える「デザイン思考」において、そしてそれらの思考法を仕事に取り入れ実践する手法としての「余白思考」においては、イレギュラーは決して忌避するものではなく、むしろハッとする驚きや意外な喜びを生み出すものとして歓迎していいと思うのです。

「理想の家」を建てて分かった残酷な現実

 僕も実は、「全部自分の思い通りにしよう」と思って、失敗した経験があります。
 数年前、自宅を自分で一から設計して建てることにしました。考え尽くした「理想の家」。こうあってほしいというすべての願いを詰め込んだ家ができあがりました。
 ところがこの家に、たった数カ月で飽きてしまったのです。

 住み始めた当初は、とても気持ちがいい毎日でした。あるべきものがあるべきところにある。まさに、かゆいところに常に手が届く完璧な空間。違和感のない自然な日常の連続です。

 だけど、逆にまったく驚きがない。空間としての新しい発見がない。暮らしのアイデアを求められることもない。「もっとこうだったらいいのに」という希望もない。がっかりすることは一切ないけれど、新しい喜びもありませんでした。

 それで次第に、「面白くないな……」と感じるようになりました。ストレスは感じないけど、ときめきがないという感じ。熱くも冷たくもない、ぬるま湯につかっているような気持ちになっていったのです。

 おそらく、「自分じゃないもの」という要素が、実はすごく大事なのだと思います。偶然性の力を借りるということ。自分以外のものの力を信じるということ。そういうものを取り込みながら、イマジネーション(想像)も世界も広がっていくのです。開口部を設けて外部の風景を取り込む借景の美しさと豊かさに、心の底から納得した経験でした。

 抱え込んでいるものを思いきって他者にまかせることで、そうした広がりが生まれる。それがわかってから、「自分ではない何か。つまり、自然や人にまかせる」ことが、前よりうまくなった気がします。

 思いきって、他者にまかせる。その人が目的をしっかり理解していて、それに向けて真剣に取り組んでいるかぎり、「私ならこうする」はいったん封印。「私ではないもの」になるべくGOを出す。

 いま思えば、僕自身が設計し建てた家には、まさに自分にとっての余白がなかったのだと思います。すべてをコントロールしようとして、自分が思う最高の状態にしてしまった結果、新しいものが何も生まれなくなってしまった。

 自分の力だけで完結させずに、他人の力と偶然の力を掛け合わせることができる場所、それが、余白です。そういう場所を身体的にも時間的にも心理的にも常に持っておくことが、僕が提唱する“余白思考”の基本です。

「いい想定外」を生み出す方法

 世の中にはいろいろなバイアスが働き、複数の力学が作用しているので、本質がどんどん見えにくくなり、奥底に隠れてしまっています。「本質は何か」を考えるよりも目の前のことが気になって仕方ない。

 たとえば、とあるプロジェクトへの参加の打診があったとします。企業のビジネスパーソンの場合なら、新しい仕事や営業先への依頼が入ったと想定してください。そういうときに、その仕事を受けたらこういう手間が増えるし、クライアント企業の〇〇さんは結構な「うるさ型」だという評判だし、何より時間もないし……などというマイナス面ばかりに目が向きがちです。

 理解できる部分もありますが、でもやはり、僕はそういうネガティブなことを考えるより「プロジェクトがうまくいったら楽しそうじゃない?」とあっけらかんと言えるスタンスでいたい。
 そして、案外こういう一言が、人を動かす力を持っています。

 もちろん、僕も適当なことを言っているわけではありません。十分に咀嚼(そしゃく)したうえで、この新しいプロジェクトに参加することの本質ってなんだろうと考えて出てきたのが「楽しそう」だったということです。
 それをピュアに目の前に見せる。シンプルに伝えてみる。そういうほうが理屈で説得するよりも想いが伝わって、人の心を動かすような気がしています。

 「楽しい」「ワクワクする」「好き」──そういうことを大事にするというのは、本来、誰にでも簡単にできることです。無邪気な絶対軸の自分に戻ればいいだけのこと。けれども、社会の中でもまれているうちに、いつの間にか言えなくなっていきます。
 「いつまで子どもみたいにお気楽なこと言ってるんだ」「相変わらずバカな夢を見てるな」なんて言葉に負けてしまうのです。だけど本来は、そういうことこそが人を動かす力になるはずなんです。

 とはいえ、無邪気を貫くには、もちろんそれなりの「力量」が求められます。新卒やアシスタントが能天気に「楽しそうだからいいんじゃないですか」と言ってきたら、「いや、その前にもうちょっと考えよう」と、僕も言うかもしれません。結局、ここも塩梅(あんばい)。ここに必要なのも、考え方の余白です。

(写真:kimly/stock.adobe.com)

(写真:kimly/stock.adobe.com)

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「余白=埋めるもの・まだ何も書かれていないスペース」だと思っていませんか? その発想をやめ、「いかに“いい余白”をつくるか」に考え方を変えるだけで、物事の捉え方・見え方が変わり、思考の幅が広がります。「KPIやPDCAでガチガチなのに業績はいまいち」「いつも資料作成や会議でただただ忙しい」「予算や計画に縛られて自由がない」「数字・データ一辺倒で、人の心を軽視している」、そんなビジネスの行き詰まりを突破する、新しい思考法の提案です。

山崎晴太郎著/日経BP/1760円(税込み)

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