2024年3月13日、厚生労働省年金局は『老後の生活設計と年金に関する世論調査』を発表した。これは18〜70歳を対象にした大規模調査だ。
「何歳まで仕事をしたいか、またはしたか」という問いがあり、それに対して、約4割が66歳以上と回答している。
その背景には老後資金の不安もあるだろう。公的年金以外の資産をどう準備したいかという質問には、「預貯金」という回答が67.6%と最も多かった。「退職金や企業年金」が32.9%、「NISAと呼ばれる少額投資非課税制度」が20.9%と続いた。
2025年は5年に1度の公的年金の制度改正の年だ。24年は改正議論のための財政検証が予定されている。この調査結果がどのように反映されるのだろうか。
東京都心に住む由紀夫さん(67歳)も、「仕事を辞めたあと、1年くらいおかしくなった。お節介な同級生がいなかったら生きていなかったかもしれない」と語る。
1分でも勉強させたいと母は鉛筆を削った
北関東地方で生まれ育った由紀夫さんの人生は、55歳まで基本的に順風満帆だった。
「幼い頃から勉強もスポーツもできました。できたというより、努力が苦にならなかったんです。小学生の頃は野球、中学校と高校の6年間はサッカーに夢中になり、県大会で優勝しました」
当時の体育会系は鉄拳指導と苦しい練習がつきものだ。それに対しても「勝つためになんでもすべきだ」と思っていたという。
「話題のドラマ『不適切にもほどがある!』を見て、僕たちが青春時代を過ごした1970年代は、あの舞台となった1986年よりも、もっと不適切な常識がまかり通っていたと思います。結果が全てであり、強い人は何をしても文句は言われなかったですから」
だからこそ、由紀夫さんは勉強も頑張った。どんなにサッカーの練習が辛くても、授業中は一切の居眠りをせず、夜中まで勉強しても、学校に遅刻はしなかった。
「もし、そこで怠けたことで、成績が下がったり、順位が落ちるのが嫌だったんです。“勝ちたい”この一心だけで過ごしてきました」
大学も第一希望だった東京の国立大学に現役で合格。生まれ育った町からその大学に合格した者はおらず、祖父からは「一族の誉」と30万円の祝金をもらったという。
「今思えば、僕があそこまで結果を出せたのは、家族のサポートがあってこそ。母は僕の勉強時間を1分でも多く捻出したいと、あらゆる生活の世話をしてくれました。鉛筆まで削ってくれていたんです。父は地方銀行に勤務していたのですが、タバコも酒もやめて、僕の学費のために貯金をしてくれました」
由紀夫さんが東京の大学に進学したことで、2歳年下の妹は地元の短大にしか進学させてもらえなかった。
「妹も成績がよく、それなりに有名な東京の私立大学に進学したいという希望がありました。でも、僕の下宿代、学費にお金がかかったことで、それが叶わなかった。そのことは今も言われます」
大学に進学し、東京との差異に驚いたという。
「大学には、生まれも育ちも東京という、僕よりも何倍も努力しており頭がいい人がたくさんいました。有名人が家に遊びにきていたり、父親が大会社の役員だったり、母親が文化人だったり。入学式のときに、父は背広を母は着物を着ていたのですが、明らかに見劣りしていて恥ずかしく、二人を遠ざけてしまった。今思えば、僕を大切に思ってくれた両親にそんな態度をとってはいけなかった。今もふと思い出しては恥ずかしくなります」
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