Pages

Saturday, April 15, 2023

川崎大空襲78年 延命寺で慰霊の会 画家・小池仁さんが体験語る ... - 東京新聞

川崎大空襲の体験を語る小池さん=いずれも川崎市幸区の延命寺で

川崎大空襲の体験を語る小池さん=いずれも川崎市幸区の延命寺で

 川崎市最大の空襲「川崎大空襲」から七十八年に当たる十五日、犠牲者百五十九人の名前を刻んだ慰霊碑のある川崎市幸区の延命寺で、慰霊の会が開かれた。幸区出身で川崎大空襲を経験した画家の小池仁さん(92)=東京都大田区=が当時の体験を語った。(竹谷直子)

 川崎大空襲では、延命寺近くにあった都町ロータリー(交差点)に逃げた市民約二百人が、米軍の機銃掃射などで亡くなり、遺体の多くが同寺に運ばれた。この日、境内の慰霊碑に十二人の参加者が花を手向け、手を合わせた後、小池さんの講話を聞いた。

 小池さんは、川崎大空襲の日、父親の「起きろ!」という声で跳び起きた。牛乳店を営んでいたことから、牛乳瓶が入った箱の後ろに隠れたという。「あちこちに焼夷(しょうい)弾が落ち、火が襲ってきた。身体に付いた火を消しながら表に出た」と振り返る。周辺一帯が火の海で、国道を目指して逃げた。「国道しか逃げるところがなかった。米軍も『そこに人が来るだろう』とわかっていた。国道は真っ黒焦げになって焼け死んだ人でいっぱいだった」と惨状を語った。

献花する参加者

献花する参加者

 翌日、多くの遺体が運ばれた延命寺を訪れると、知り合いの少年がヘルメットをかぶった状態で亡くなっていた。「ヘルメットの脳天から撃たれたようだった。あまりの衝撃に足元がふらついて、ぼうぜんと遺体を見ていた」と話した。

 小池さんは、東京大空襲の写真集を見たことをきっかけに「絵にして残さないと」と思い、二〇〇〇年に一作目を描き上げたという。その後も描き続けているといい、「戦争とは人と人の殺し合い。爆撃されてめちゃくちゃにされて、ようやく戦争とはこういうものだとわかった」と語った。

 川崎市史によると、川崎大空襲は十五日午後十時から翌十六日未明まで続き、約二百機のB29爆撃機が一万二千七百発余りの焼夷弾を落とすなどした。少なくとも千人が亡くなった。

関連キーワード



おすすめ情報

Adblock test (Why?)


からの記事と詳細 ( 川崎大空襲78年 延命寺で慰霊の会 画家・小池仁さんが体験語る ... - 東京新聞 )
https://ift.tt/egh9Pn0

No comments:

Post a Comment