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Wednesday, August 30, 2023

「東京はむしろ危険に…」 記録から分かった桁違いの揺れ【関東 ... - テレビ朝日

関東大震災はどう揺れたのか。東京から270キロ離れた場所にあった記録を見つけ出し、揺れの詳細を明らかにした研究者がいる。

記録からわかった本震のエネルギーはこれまでの2倍で、さらに2日間で阪神大震災クラスの地震が本震とあわせ6回起きていたことがわかった。桁違いの地震の実態にたどり着いた研究者は「今の東京はむしろ危険になっている」と危惧する。

(テレビ朝日報道局社会部 災害担当 川崎豊)

■残っていた揺れの記録

地震の規模を表すマグニチュードは、一般に地震計で観測された記録の最大振幅値から決まるという。しかし、関東大震災の揺れは非常に大きく、地震計の記録は針が振り切れてしまっていて、満足な記録は国内にはないと言われていた。

本当に記録は残されていないのか。現在、名古屋大学特任教授を務める地震学者の武村雅之さんは、この点に疑問を抱いた。その手掛かりとなったのは、関東大震災から69年たった1992年。東京からおよそ270キロ離れた岐阜県に残された「揺れの記録」だった。

その記録を直に見ようと、岐阜市にある岐阜地方気象台を訪ねた。地震計が設置された1階の部屋の隣に、古い地震の記録がいくつもの箱に分けられて重ねられていた。その箱の一つから、黒い紙に糸のような白い線で描かれた揺れの記録が出てきた。気象台の職員が「こちらが関東地震の9月1日の波形です」と説明してくれた。

揺れ始めから大きく上下に波打つ線は、その後振幅が小さくなりながらも揺れ続け、また大きく波打つ。その後も波は続き、再び波が大きくなり、次第に直線に近づいていく。関東大震災が起こった1923年9月1日午前11時58分からの6分間の記録だった。

「すごく感動したんです」

記録を見つけた武村さんは、発見したときの想いをそう話してくれた。“ない”と言われていた記録があったことに加え、記録が9月3日の朝まできっちり残っていて、余震に関しても正確にとらえていたことも嬉しかったのだという。

「本震と余震っていうのが非常に綺麗に分かれて見えるんです」
特に武村さんが注目したのは、地震の始まりからの6分間の記録。以前から関東大震災の体験談を調べている中で、東京が3回揺れたという話を多く聞いていたが、この本震と2回の余震をこの岐阜の記録は捉えていた。当時の岐阜は震度3だったが、関東大震災の震源から離れていた上に、地震計が小刻みな揺れまでを書くように設定されていた特性もあり、本震と余震をきれいに分けて観測していたのだ。

■地震の規模は阪神大震災の16倍

武村さんはこうした振り切れていない関東大震災の記録を、その後も山形や徳島、長崎など各地で探し出し、その最大振幅値から本震のマグニチュードを計算し直した。

現在、関東大震災の本震を気象庁では7.9としている。しかし、武村さんの導き出したマグニチュードは8.1±0.2。0.2しか違わないと思うかもしれないが、地震のエネルギーに換算すると2倍。とてつもない地震だった。

さらに本震直後の余震の記録も細かく残っていたことから、関東大震災の揺れの一部始終がわかってきた。そこから見えてきたのは、震災クラスの地震が連発した緊迫の2日間の様子だ。

関東大震災の本震は、今から100年前1923年9月1日の午前11時58分に起きた。震源の真上を示す震央は神奈川県西部。地震の規模を表すマグニチュードは8.1。

地震のメカニズムとしては、北米プレートの下にフィリピン海プレートがもぐりこむことによっておきる「海溝型の地震」で、地表近くの活断層が動くことによる阪神大震災型の地震とはメカニズム自体は異なるが、地震のエネルギーで比較するとマグニチュード7.3だった阪神大震災のおよそ16倍と桁違いの規模だ。

本震で動いた断層面は長さおよそ150キロ、幅70キロで神奈川県の大部分と千葉県南部がすっぽり入ってしまう大規模なものだった。

その3分後にマグニチュード7.2の地震、さらにその2分後にマグニチュード7.3の地震が起きた。たった6分間でマグニチュード7以上の地震が3回も起きていたことがわかった。

武村さんは通常マグニチュード8クラスの地震だけで6分間揺れるということはありえず、東京は3回揺れたと多くの人が証言した地震の揺れを、岐阜の記録が説明してくれたとしたうえで、この6分間についてこう話した。
「阪神淡路大震災を起こしたような地震が次々に起こったということだと」

■2日で6回も相次いだ震災クラスの地震

さらにその後1時間も立たないうちに東京湾でマグニチュード7.1の地震が起き、本震からちょうど24時間が経とうとした2日午前11時46分、最大の余震となるマグニチュード7.6の地震が千葉県勝浦沖で起きた。その7時間後には、千葉県東方沖でマグニチュード7.1の地震。たった2日間で実に震災クラスの地震が6回も発生していたのだ。

1. 1923年9月1日11時58分 M8.1(本震:エネルギー比で阪神大震災の16倍)
2. 1923年9月1日12時01分 M7.2
3. 1923年9月1日12時03分 M7.3
4. 1923年9月1日12時48分 M7.1
5. 1923年9月2日11時46分 M7.6
6. 1923年9月2日18時27分 M7.1

武村さんは、関東大震災はマグニチュード8クラスの地震が陸の直下で発生し、かつマグニチュード7クラスの地震が頻発した滅多にない地震だったと話す。

「例えば阪神淡路大震災だったら、大阪まで行けばまあ普通の生活してたじゃないですか。だけど関東大震災って神奈川県まで行っても同じような被害だし/マグニチュード8クラスが陸の下で起こったらどうなるのかというのは関東大震災でしか分からない」

今まで経験したことがない揺れにたびたび襲われた人の心には不安が大きく増幅されたことだろうと思う。

明らかになった関東大震災の揺れの詳細から、私たちは何を学ぶのか。武村さんはこの揺れの記録を当時の人が残してくれていたことを受け、我々の世代がこれを通して何を残していくかを考えることが重要だと話す。

「東京はあれほど被害が出る必要はなかったと私は思うんですよ。東京の場合は、震源の直上ではないのに、二次被害があれだけ多くなって、関東大震災の被害の7割を占めてしまった。震源から外れた場所でも不用意な街を作っていると大きな被害が出る。私はこれが関東大震災の最大の教訓だと思います」

当時の記録が示した揺れの激しさに圧倒される中、武村さんは気になる言葉を口にした。

「東京は確かに関東大震災の後にできた耐震基準で個々の建物は昔より強くはなってきているんだけど、街全体としてみたときに決して安心はできない。
むしろ非常に危険な要素を含むようなそういった街になってしまっている」。

どういうことなのか。

■「経済的な必要が、防災の必要を塗り替えた」

武村さんは、震災の研究をする過程で、その後の東京の復興過程も調べていくことになった。そこで明らかになったのは、関東大震災の被害からの教訓で作られた先人たちの街づくりの意志が必ずしも生かされていない現状だ。

明治から関東大震災までの間、街づくりは一貫した思想のない中で進んだ。区画整理もされず、道路も公園もなく、人口が集中する町が無計画にできた結果として、甚大な被害が出た。この反省に立って計画されたのが「帝都復興事業」だった。

焼けた東京の中心部には幅の広い幹線道路ができた。東京の都心を通る昭和通りはこの復興事業によってできた。幅は44m。真ん中には緑地帯があった。

それが今、延焼を防ぐ理由もあった昭和通りの緑地帯は道路に置き換わった。

震災復興公園として作られた「三大公園」も例外ではない。当初広いオープンスペースが確保されていたが、戦後、中央区の浜町公園には区立総合スポーツセンターと区民斎場、墨田区の錦糸公園にも総合体育館が、隅田公園には台東区側にスポーツセンターが建てられ、それぞれ大きな敷地を有するため、オープンスペースが減少している。さらに隅田公園の墨田区側には、首都高速6号向島線建設の影響で、公園と川沿いの遊歩道は道路で分断されてしまった。

武村さんは経済的な必要が、防災の必要を塗り替えていった象徴的な姿とみている。

■「危険になっている」東京をどう変えていくのか

関東大震災で得たはずの教訓も徐々にないがしろにされ、経済優先のもと安全性が犠牲になっているのではないか、と武村さんは考える。

現在の東京でも大きな問題となっている江東地域に広がるゼロメートル地帯。高潮や大雨による洪水の危険性はもとより、首都直下地震が起きれば、強い揺れに襲われ堤防が破られれば海水が一気に流入し、200万人の命が危険にさらされる。これも地下水の過剰揚水により地盤沈下が進んだ結果とみる。

木造密集地域は、当初広大だった復興事業の対象からはずれた地域で、区画整理が進まず、曲がりくねった農道が生活道路になり、木造住宅が密集する地域が生まれた。

さらに時代とともに新しい問題も生まれつつある。例えばタワーマンションの林立とその上層階をつなぐエレベーター。多くの人が住めるようになったが、エレベーターが止まると、その中にいる人はもちろん、上層階の住民はたちまち生活に困ることになる。

少し長くなるが、武村さんの言葉に耳を傾けてほしい。

「帝都復興事業の時は一時的にきちんと考えられたんだけど、それが引き継がれていないということが問題です。
東京で起こっている問題では、例えば埋立地のタワーマンションが地震の時にライフラインが麻痺して孤立するかもしれないとか。他にも都心部の高層ビルの容積率を緩和して、乱立した高層ビル街になっていますよね。それが人口集中を起こしますから、その人たちが例えば帰宅困難者になったときに、駅などに近寄ればものすごい数の人がいると、群衆雪崩などということも起こるかもしれないじゃないですか。

そしてあれだけ高層ビルが立っていたら、エレベーターの数も、考えただけでも恐ろしい数ありますよね。その何パーセントで閉じ込め事故が起きるのか。それを助ける態勢はちゃんとしているのか、多分誰にもわからない。もし助けてもらえなかったら命を落とすんですよね。これは市民がこうむる問題ですよね。

それを考えた時に、東京はほかの都市に比べて危険なのか、安全なのかと言われると、今私が言ったように、東京が一番ひどいという状況ですよね。だからむしろ他の都市とくらべて危険になっている、そういうことは考えられるんです」

関東大震災から100年たったが、私たちは今も首都圏直下地震におびえなければいけないのはなぜなのか。

関東大震災のような地震が再来する間隔は、短ければ200年程度ともいわれる。今年は100年で折り返しと考えることもできる。今後は関東大震災のような地震が再び起こる確率がさらに高まり、それに備えていく100年でもある。
どう街づくりを進めていくのか。100年前の出来事ではなく、今の私たちにも突きつけられた重い課題だ。

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