暗くて容赦のない波のように、悪夢はわたしに迫ってきた。ぶあついうねりがわたしを沈め、顔をあげてもがこうとすれば足をつかんで引きずりこみ、暗くて重い水のなかで、わたしは何度も方向を見失った。胸にも背中にも大量の汗をかいていた。
目が覚めたとき、口を開けたままだったのか粘膜がからからに乾燥して、舌がうまく動かなかった。わたしは布団をめくってシンクにゆき、コップに入れた水道水をたてつづけに二杯飲んだ。そして加藤蘭の番号に、電話をかけた。
六回のコール音のあとで、はーい、という明るい声が聞こえた。わたしは唾をひとつ飲みこみ、反射的にそれが加藤蘭のものであるかどうかを判断しようとしたけれど、わからなかった。もしもし、とわたしも声を出した。緊張でかすかに下顎が震えているのがわかった。
「すみません、あの、加藤蘭さんの……番号でしょうか」
「はい」
かすかに低くなった声で蘭は返事をした。蘭だ。心臓がどきりと鳴った。
「あの、花です」
「花?」
「はい、あの、わたしは伊藤花って言って、昔一緒に」
「花って」少しの沈黙のあとで、蘭は言った。「……あの花ちゃん?」
「うん、花です。ごめんね急に」
「いや」
「まさか、
わたしは電話をもち替えて耳にぎゅっと押し当てた。
「……どうしたの、なんで番号わかったの」
「昔の携帯に残したままで」
「ああ」
蘭が小さくため息をつくのが聞こえた。
「ほんとに、急に驚かせてごめん」
「いや、それはいいんだけど……ちょっとびっくりして。っていうか、昔すぎるから」
「そうだよね、ごめんね。電話をしたのは、黄美子さんのことで」
蘭の後ろで、子どもたちが楽しそうに騒いでいる声がした。女の人たちの話し声も混じっていた。それが少し遠のき、蘭が場所を移動したのがわかった。
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