沖縄テレビ
戦争で失った父親の名が今年、平和の礎に初めて刻まれた男性。75年経っても癒えない悲しみを背負ってきた男性は、いま何を思うのか。 75年の時を経て刻まれた名前。那覇市に住む、上地徳於さんの父親の名前だ。上地さんがずっと大切にしているが戦争で命を落とした父・戸那さんの遺影。 上地徳於さん「(父は)かわいがるのは兄弟の中で一番だから寝るときも必ず自分のそばに寝かして」 優しかった父は日本軍に徴用され宮古島の飛行場で作業に従事していたが、熱病にかかり命を落とした。上地さんがそのことを知ったのは小学校4年生のとき、疎開先の台湾でのことだった。 上地さん「全然信じなかった宮古に帰るまで約2年間、台湾から引き揚げてきたときに(母親が)道まで迎えに来ていたんですね。よく帰ってきたと。僕はお母さんじゃなくてお父さんに一番会いたい」と言ったもんだからもう母もこらえ切れないわけさ」 父と同じように熱病で亡くなった近所の人の名が平和の礎に刻まれていることは知っていたが当時は申請の方法がわからず断念。しかし去年上地さんは自身を奮い立たせた。 上地さん「去年の7月に脳がちょっと血管が切れたといって3か月くらい入院していたんですよ」退院後、家族の手を借りて宮古島市から戸籍謄本を取り寄せ、県に申請した。 今月16日、平和の礎に父の名が刻まれた。「長らく手続きをしないでごめんなさいと言いたいよ。安心したというのかホッとしたというのか、あまりに長い間のことだからなんて表現していいかわからないですね」 手を合わせる刻まれた父の名を見て、上地さんの口から漏れた言葉。「同級生なんかお父さんがいる人なんかはとってもうらやましかったよ」大好きだった父を奪われた悲しみ、心の奥に閉じ込めてきた思いがあふれ出した。 「これはずっともうこっちですか?」上地さんがこう尋ねた理由それは、兵隊に招集され命を落とした兄・盛榮さんの名前は礎の別の場所に刻まれていたからだ。 上地さん「兄だけは帰ってくると思ってた。昭和22年に戦死広報と遺骨が来て」 別々の場所で亡くなった父と兄、同じ場所に名前を刻んであげたかったと上地さんはじっと刻銘版を見つめた。75年の時を経て父の生きた証を残すとともに上地さんは、戦争を知らない自身の子や孫に伝えていくことができると安堵の表情を浮かべた。 上地さん「うちの子供なんかもまったくわからないさね戦争のことは今年中にでもみんなが休み一緒に取れれば来たいと思っています」
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June 23, 2020 at 05:00PM
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75年目に刻まれた父が生きた証… 癒えない哀しみを背負って(沖縄テレビOTV) - Yahoo!ニュース
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